王賁の最期は?史実でも活躍した名将

こちらの記事では、キングダムの王賁について紹介しています。

王賁は史実では、燕、魏、代、斉と実に4カ国を制圧するという大きな活躍をした武将でした。

長年戦場に身を置きながら、最期まで天寿を全うした王賁の史実について紹介していきます。

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王賁の史実

王賁は、王翦の子です。王家とは代々、武官として活躍する一族です。

王賁も、幼い頃から修練を重ねていたはずです。

王賁の名前が初めて登場するのは、秦国が燕国を攻めた時です。燕の王都・薊(けい)を攻め落としています。この時は、国王の喜が遼東へ逃げていますが、この4年後に遼東を攻めて喜を捕らえることで、燕国を滅亡させています。

しかも、その間に魏国の王都大梁に攻め入り、国王の假(か)を捕らえ降伏させることで、魏国を滅ぼしています。

魏国と燕国を滅ぼした後は、さらに代という、趙国の王族の生き残りが建てた国を攻め、討ち滅ぼしています。

その後、父の王翦が楚国を滅ぼした1年後に、李信、蒙恬と共に、斉国を攻め、斉王建を降伏させたことで、秦国は中華統一を成し遂げるのでした。

王賁は、燕、魏、代、斉と実に4カ国を滅亡させるという大きな功績を残しています。

王賁の最期、死因は?

春秋戦国時代の記録は、王翦のような大物であっても、その最期については、不確かなところがある中で、王賁の功績がこれほどしっかりと残っているのはすごいことです。

ちなみに、王翦も王賁も、戦場で討たれたり、謀によって命を落とすことなく、死因としては、天寿を全うして、この世を去っている可能性が高いとされています。

どちらかといえば、文官としての才のある蒙家の、蒙恬、蒙殻が謀によって殺害されたのに対して、武官として活躍してきた王一族の二人が天寿を全うするというのも、不思議な感じがします。

キングダムの王賁

キングダムで王賁が初登場するのは、山陽の攻防戦の時です。

飛信隊、楽華隊と同じく三百人隊である玉鳳隊を率いていました。

史実と同じように、幼い頃から武芸の修練を積み、槍術に関しては王賁の右に出るものはそうそういません。

トントン拍子に昇格

王賁は、大きな戦が起こるたびに、着実に昇格していきます。

二千人将として参戦した合従軍との戦いでは、騰将軍から臨時の5千人将に任命され、蒙恬と共に、騰軍の窮地を救う活躍をしています。

合従軍との戦いの後に、3千人将、魏国との著雍の攻防戦の後に、5千人将にまで昇格しています。

その後も、信や蒙恬と競い合うように、戦場で活躍し、武功をあげ続けています。

今、キングダムでは、趙の鄴攻めが描かれていますが、この戦いが終わった時点で、正式に将軍に昇格することは、まず間違いありません。

王賁と王翦の関係

王賁と、父である王翦の関係はとても希薄なものに見えます。

幼い頃、王翦は王賁に声をかけることすらほとんどありませんでした。

王賁は、それでも王家の政党な嫡男としての責務を果たすべく、絶対不可能と思われる状況でも、果敢に挑んでいます。

▶︎▶︎王翦と王賁の関係〜本当の親子ではない!?〜

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